斎藤喜博「授業」国土社 を読んだ。
斎藤喜博の「相互交流」という概念が、学校教育でしかできない大切な概念だと感じた。
昨今、動画やオンライン授業が流行っているが、学校教育でしか伸ばすことのできない相互交流という考え方を若い先生には知ってもらいたい。
この相互交流をさせることができる先生でないと、これから10年先、プロ教師の動画配信に飲み込まれてしまう。
残りの教師人生で大切にすべきことが見える、一冊。教師である以上必ず読みたい本である。
① 授業とはコミュニケーションを組織することである!
② 教材解釈の三つの型とは?
③ どのような子どもを育てるべきか
① 授業とはコミュニケーションを組織することである。
質の高い交流が授業内で行われると、教師も子供も次々と今まで見えていなかった世界に引き上げられていく。
そのような感動を経験することが更なる授業の深化につながっていく。しかし現場で行われている授業は次の二つが多い。
一、「はいはい授業」
教師から子供に一問一答となる知識伝達型の授業である。はいと手をあげて発言している子もいるが、正解を答えるだけなので、
誰かが先に当てられたらその時点で意見が言えなくなるので我先にとはいはいと手を挙げるようになる。
そこに互いの意見を聞こうなどという意識は全く生まれない。
二、部分的相互伝達授業
教師と指名された子供の間や、一部の子供同士で意見の交換が行われれ、部分的に意見を交流している状態である。
話している当事者間では意見の深まりは見られるが、周りの子達は蚊帳の外の状態。
全体に考えが絡み合っていない授業である。
この二つではなく斎藤喜博が目指すべきと考えたのが以下の授業
激しいコミュニケーション授業
「激しい」という言葉が過激であるが、意見の交流の中で新しい発見の連続があり、自分の考えや自分自身のあり方に変革をもたらすような授業が理想的な授業なのである。
では激しいコミュニケーションが産まれるためにどうすればよいか。それは否定に否定を重ねながら授業を進めていくことである。
教材に対しても他者の意見に対しても本当にこれでよいのか、曖昧にしているところはないのかを考え抜く姿勢をまずは教師が貫くこと。
その教師の姿勢が子供にも伝わっていく。
② 教材の解釈の三つの型
教科書でも、芸術分野でも、科学分野でも次の三つの段階の解釈を持って教師は授業にあたるべきである。
そうすることで、激しいコミュニケーションをうむ授業に子供達を導くことができるはず。
一 一般強としての解釈
教材に対して一般的にどのように考えれているのか、それをまずは教師は理解しておかねばならない。
二 教師として、現実の子供の考えを想定した解釈
この教材に対して、クラスのあの子はどのように考えるかを含めた解釈である。ここにおいて子供たちがどう考えようが間違えの解釈はないという意識が大切である。
三 最新の研究まで調べること
教材の内容が今現在到達している、最新の研究成果を教師自身が持っているように調べておく。
③ どのような子供を育てるべきか
うまく知識を使いこなせる人間ではなく、激しいコミュニケーションを伴った授業を通して、
「自分の意思で自分の肉体や頭脳を自由に駆使する子」を育てるべきである。
こういう子は相互交流のなかでしか産むことができない。
授業においても行事においても芸術教育においても、関わり合いの中でそれぞれの考えが生まれそこから何をすべきか自分で考える機会は、学校教育でこそ子供達に伝えられることである。
ブログ主的補足
動画で知識をえる作業はとても楽で効率的である。
しかし、実際に生きた力とするためには誰かと議論したり発信して叩かれたりすることが必要なのだ。
考えを叩き合い、より深いものに進化させていく経験は確かに学校教育がなすべき仕事。
ただ、そんな授業は容易につくれるものではない。
だからこそ、教師自身がしっかりと考えをもち、その考えにしたがって研究授業や公開授業を行い叩かれ続けること。
それこそが、価値ある授業を作る教師の大切な営みなのだろうと感じた本である。
アクションプラン
ネットでまず最新の研究を調べるようにする。
公開授業は月に一回程度はできるようにする。
模擬授業の機会があれば恐れずにチャレンジをしまくる。
自分の芯となる考えをまず指導案に書く。